2010年03月07日

ごんぎつねの里

愛知県半田市出身の童話作家、新美南吉の代表作、「ごんぎつね」を
読み直してみた。30年ぶりの感動がよみがえった。
是非大人になってからもう一度読み直してみてほしい作品である。

南吉はなぜ「ごんぎつね」を書いたのか。幼いころ母親と死別したこと
から生まれる孤独感、預けられた叔母の家に馴染めないことから生まれた
「分かりあうことの難しさ」・・・
きっと南吉のそんな胸中があの傑作を書かせたのだろう。


半田市にある新美南吉の生家。

「ごんぎつね」は極めて日本的な、それも日本の「里山的な」作品である。
舞台も、登場する人物や風景ももちろんのこと、それ以上に、人と動物の
関わりが里山的なのだ。

ごんと兵十の近すぎず、遠すぎない距離感。
これこそがまさに昔の日本の里山における人と動物の関係である。

動物なんて、時に心をなごます可愛らしい存在にもなるが、基本的には大事
な作物を食い荒らすやっかいな存在なのだ。
「ごんぎつね」の中でのごんはまさにそういった存在として描かれており、
これが当たり前のリアルな人と動物との共生のあり方だ。


兵十がうなぎを捕った矢勝川。今はもう捕れないだろう。この日、大量の
アメリカザリガニの死骸があった。汚れに強いこの生物がなぜ?


童話「ごんぎつね」は、主人公であるきつねを過度に擬人化していない。
これは西欧の昔話にはあまり見られないことだろう。
人は人、食い物は食い物、ペットはペット、などと割り切って考えるキリスト
教的価値観からはこの童話は決して生まれない。

ディズニー映画のような完全に擬人化された世界は、現実にはありえない。
本来、人と動物の関係は決して「可愛い、可愛くない」だけのものではなく、
そこにはリアルな部分での生と死、食う側、食われる側、といった関係性が
必ずあるはずなのだ。

ひねた見方かもしれないが、一連の動物救出モノニュースを見てると、どう
しても「なんかイビツな感じ」を受けてしまうのである。
ペットの犬のことを、「うちのこの子は・・・」などと呼ぶ飼い主に出会った
時の感じにも似ている。犬、猫、イルカ、クジラなんかは人間に近いカテゴリー
に分類され、それ以外は「動物側」なのか?

犬や猫、それにイルカやクジラなんかの救出作戦にもしも涙したのならば、同じ
気持ちを昨日食ったハンバーグの中の牛たちにも向けてやるべきではないか。
豚にも、鳥にも、魚にも・・・その気持ちがあれば、ゴミの割合ナンバーワンが
「食い物」なんて異常な国にはなるまい。
きっとこの観念は、シーシェパードのようなバカどもには一生わからないだろう。

今も年間何十万頭もの犬猫たちが殺処分されている。ペットブームだかなんだか
知らないが、次から次へと外国産の新しい生きものが入荷し、珍しいと言っちゃ
飼い、飽きたと言っちゃ捨てる。

一匹のペットの生の裏に潜む、とてつもない数の動物たちの死。
我々はあまりにもその死に対して、無頓着になりすぎてやしないか?



最後に、南吉作品の中で俺が最も好きな「てぶくろをかいに」の一節を記す。

  「かあちゃん、人間ってちっともこわかないや。」「どうして?」
  「ぼく、まちがえて本当のおててを出しちゃったの。でも帽子屋さん、
   捕まえやしなかったもの。ちゃんとこんな暖かいてぶくろくれたもの。」

   と言って手袋のはまった両手をパンパンやってみせました。
   おかあさんぎつねは、「まあ!」とあきれましたが、

  「ほんとうに人間はいいものかしら。ほんとうに人間はいいものかしら。」
                          とつぶやきました。

鉄崎幹人公式HP http://www5.ocn.ne.jp/~tetsu/  

Posted by mikihito at 23:51Comments(1)TrackBack(0)